季節外れの・・・木枯らし
叔母が尼僧でした。
ある尼門跡寺院に90年を超えてお仕えし、その寺院独自の伝統を持つ精進料理の担い手でした。
お台所で小さな体をくるくると動かし立ち働く姿が今でも思い浮かびます。
叔母が作る仏様へのお供えや行事食、毎日のお寺のご飯作りをお手伝いする機会に恵まれました。
貴重な経験だったと、今になって思います。
料理教室や種々の講座から学べることは多くありますし、目的に合わせて選択することができます。
でも叔母の作る精進料理に触れ手ほどきを受けたことは、自ら選択できたことではありません。
幸運であった、としか思えない。
仏様が料理好きにくださった、私にとっては思いもかけない貴重な経験であったと思います。
この幸運を自分の中だけで終わらせずに誰かに伝えたい、そのような想いで叔母の作ったお精進、京都のある尼門跡寺院に伝わる精進料理をご紹介する講座を開講しています。
枯れた葉っぱに名前がつくと
お野菜は皮を剥いたり葉を落としたりして、美味しそうな実だけをいただくことがありますね。
中にはㇲが入ってしまってあらどうしようと結局食べずにもったいないことをしてしまうことがよくありました。
とても後ろめたくて、なんだか自信を無くしてしまう気持ちになってしまいます。
お野菜たちの気持ちになってみると、「あっ僕ヘタだから捨てられるんだ」「私、皮なの?」「おれは根っこだ、要らぬものなのか」なんて思っていない。
「ㇲが入ってすみませんね~」とも思っていない。
お野菜まるごと全身全霊をかけて今ここにある。
度々開く本に水上勉氏の「土を喰う日々」があります。
この本では道元禅師の説いた「典座教訓」を著者ご自身の解釈で読み解いた文章がとてもわかりやすく書かれています。
その中のひとつ、このくだりが心に残っています。
僕流に解釈すれば次のようなことになる。
「……..
たとえ、粗末な菜っぱ汁をつくる時だって、いやがったり、粗末にしたりしちゃならぬ。たとえ、牛乳入りの上等の料理をつくる時に、大喜びなどしてはならない。そんなことではずんだりする心を押えるべきである。何ものにも、執着していてはならぬ。どうして、一体粗末なものをいやがる法があるのか。粗末なものでもなまけることなく、上等になるように努力すればいいではないか。ゆめゆめ品物のよしわるしにとらわれて心をうごかしてはならぬ。物によって心をかえ、人によってことばを改めるのは、道心ある者のすることではない」
「土を喰う日々 わが精進十二ヶ月」水上勉 著 1978年 文化出版局
「物によって心をかえ、人によってことばを改めるのは、道心ある者のすることではない」
・・・このくだりに、簡単に慢心してしまう自分の心に気付かされます。
料理本で、尼僧寺院に600年に及び伝えられてきた料理の数々を紹介する一冊があります。
「京都 竹之御所風 おそうざい精進料理」(昭和55年 暮しの設計131号)
叔母から受けた精進料理の手ほどきを思い出しながら、40年以上も前に出版されたこの一冊を折に触れ読み返しています。
その中に「木枯らし和え」という一品があります。
大根の葉やかぶらの葉、日が経つと黄色くなることがありますね。
「あっ、もっと早くに食べればよかった」と思いながら、ちぎってポイしてしまうことがあります。
このレシピ、時間を超えて何日もあとでも食べることが出来るように、大根の葉を黄色くなるまで干しておく、そんなことが書かれてあります。
黄色くなったと捨てる私、手をかけて黄色くなるまで干して大根を余すことなくいただこうとするお寺の料理。
さらに、黄色くなった大根葉を晩秋の風に吹かれて舞う落葉の色に見立てて、「木枯らし和え」と名がついていること。
手をかけ時をかけ、名前をつけていただくこの一品。
何気ない毎日の一品に名前を付け、小さな一皿を愛で楽しもうとする姿勢に心から感銘を受けました。
写真は木枯らし和えを真似て、ケールの酢醤油和えです。
干したお野菜は、使う前に時々記念写真を撮っています。 (^^♪
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